大阪探訪記

~隠れた名所と不思議なものを求めて~

団地のまち、南余部西を探訪。でっかくてキレイな府営住宅ゾーン【大阪府堺市美原区】

2025-07-17 16:29:40
2025-07-17 16:37:27
目次

南余部西を歩く!

堺市美原区の南の端っこ。地図を広げてみると、やけに整った長方形の建物がズラリと並んだ一角があります。

そこが今回の主役、南余部西(みなみあまべにし)各丁(1~3丁目)。そして、その正体は・・・・・・

そう、「大阪府営美原南余部住宅」という巨大団地なのです!

(撮影・執筆 2025年7月)

まるで住宅タワー軍団!? でっかい府営マンションがズラリ!

南余部西は、ほぼまるごと団地でできてる町。

しかもその団地がハンパじゃない。7階建てから11階建ての大型マンションがビシッと並んでいて、まるで住宅の要塞みたい!

しかもこの団地、ただでかいだけじゃないんです。

外壁はスッキリ清潔感があり、とてもキレイ。

「え、これ府営なん?」ってびっくりするレベルで、しっかり手入れされてる感じです。

大阪府営住宅の工事資料を調べてみると、平成の頃に大規模な改修工事(外壁塗装やその他諸々)があったらしく、それで今の姿に生まれ変わったみたいです。納得。

「南余部」と「南余部西」は別モノ!?その理由とは

ちょっとややこしいんですが、ここでひとつハッキリさせときましょう。

この「南余部西(みなみあまべにし)」という町、名前は似てるけど、「南余部」とは別の町です。

「なんでそんなややこしい名前つけたん?」って思うかもしれませんが、

これは、平成初期~中期にかけて、大阪府営住宅(美原南余部住宅)を建設・整備するにあたって、新たに整理・造成された町やからなんです。

つまり、元からある「南余部」という集落・町並みとは違って、ここ「南余部西」は、団地を中心とした“新しい町”として区画整理された場所というわけ。

そのため、行政上もきちんと「別の町名」がつけられました。

実際、町を歩くとわかるんですが、「南余部」には昔ながらの家や地元の商店があるのに対し、「南余部西」は、ほとんどが整然と並んだマンションと道。一戸建てはほんの少しだけ。雰囲気からして全然ちがいます。

名前は似てても、町の成り立ちも、景観も、ぜんぜん別物。

ここまでハッキリ違うのに、名前だけ近いって、ちょっとまぎらわしいけど・・・・・・その裏には、時代の変化と都市整備の流れがちゃんとあるんですね。

団地がすべてじゃなかった!? 南余部西の“意外な前身”

南余部住宅集会所↑

現在の南余部西といえば、7〜11階建ての大型団地がズラリと並ぶ「府営住宅の町」という印象が強いですが、実は団地が建つ前から、すでに住宅地としてある程度整備されていたようです。

1987年測図の南余部西の地図↑(今昔マップ on the webより)

昭和62年(1987年)頃の地図を見てみると、このエリアにはすでに道路が碁盤の目のように整備され、戸建て住宅や低層の建物らしきものが建ち並んでいた様子がうかがえます。

つまり、もともと“何もなかった”わけではなく、既存の住宅街があった場所の一部を再整備して、現在の府営団地が生まれたのです。

その後、平成の区画整理や府営住宅建設を経て、町名として「南余部西」各丁が新設され、団地とともに新しい町として整えられた・・・・・・というのが、南余部西の正確な歩みといえるでしょう。

昔からの住宅地に、新しい団地がドンと加わって再編された町

だからこそ、南余部とも違う、でも単なるニュータウンでもない、そんな不思議なバランスの町になっているのかもしれませんね。

南余部西は、平成に入って“じわじわ”生まれた新しい町

南余部西にある公園 その1↑

現在の「南余部西」という町は、名前の通り「南余部」の西側に位置するわけですが、実はこの町・・・・・・

一気にまとめて誕生したわけではなく、平成の中ごろに“段階的に”生まれた町なんです。

まず最初に誕生したのは、1996年(平成8年)。このとき、現在の「南余部西3丁目」が正式に町名として新設されました。

ただし、この時点ではまだ大部分が「南余部」のままで、町としては完全に独立していませんでした。

その後、2000年(平成12年)になると、「南余部西1丁目・2丁目」も誕生し、ようやく今の「南余部西1~3丁目」という形が完成したのです。

このことからも分かるように、南余部西は平成という新しい時代の中で、少しずつ形を整えながら生まれていった“進化型の町”と言えるかもしれません。

なんやこの広い道!? 命を守る「ひみつの通路」??

団地と一戸建て住宅の間を歩いてると、「え? ここ、なんのスペース?」ってなるくらい、不自然に広い“空き”みたいな通路があるんです。

ベンチもなし、遊具もなし、ただただ舗装された広場的なスペース。

たぶんこれ、火災や災害時の「疎開道路」や「避難通路」なんちゃうかなと思います。

いざという時、消防車や救急車がスッと入れて、住民が安全に逃げられるように確保された“安全の余白”。

ふだんは子どもたちが走り回ったり、自転車の練習とかに使われてるみたいやけど、この「なんもない空間」こそ、団地の安心を支えてる大事な場所なんですね。

南余部西にはお店がない!? でも、安心してください

南余部西の町をぐるりと歩いてみると、ちょっと驚かされます。

なんと、団地はたくさんあるのに・・・・・・お店がぜんぜん見当たらないんです。

コンビニもなければ、スーパーもない。団地の規模から考えると、商店街のひとつくらいあっても良さそうなもんですが、実際は静かな住宅エリアが広がるばかり。

けれど、ご安心を!

南余部西のすぐ外に出れば、周辺の町にはちゃんと買い物スポットが揃ってるんです。

例えば、南余部にはコノミヤやローソンがあって、サンプラザや商店街もある。まず、普段の食料品や日用品の調達には困りません。

さらに足を伸ばせば、飲食店、薬局なども見つかりますし、黒山方面へ行けば大きなショッピングモールもあって、一通りなんでも揃います。もちろん徒歩・自転車で数分の距離。

つまり南余部西は、“住むには静かで落ち着いた団地の町”、でも“買い物はすぐ隣でできる”という、じつはバランスの取れた環境なんですね。

団地の中にずっとこもるというより、少し足をのばして周囲の町とセットで暮らす・・・・・・そんな生活スタイルが自然に根づいている場所やね。

昭和以前は田んぼと畑だった!? 南余部西誕生のウラ話

1908年(明治41年)測図の南余部西の地図↑(今昔マップ on the webより)

今でこそ高層団地が立ち並ぶ南余部西ですが、昭和以前のこのあたりは、まったく違う風景が広がっていたみたいなんよ。

明治頃では、南余部西の一帯には、住宅どころか建物もほとんどなく、一面の田んぼや畑が広がる“のどかな農村地帯”だったことがわかる。

今でも南余部西の周辺には田畑が広がっており、これはかつての田園風景の名残りともいえるのかも。

南余部西にある公園 その2↑

一見すると無機質な都市団地のようでいて、実はその足元には、かつての農村の記憶がしっかりと息づいている・・・・・・そんな不思議な土地なのかもしれません。

『南余部西』の場所

グーグルマップ

https://maps.app.goo.gl/UeHuxM7wc9LLGaTz8

この記事を書いた人

しま(桜華綴舎 代表取締役)

ブログ歴10年以上。大阪探訪ライター&プロブロガー。 2014年から、関西の珍スポットなどを紹介する「シマのブログ」(旧ブログ)を書き始め、2025年から新ブログ「大阪探訪記」として再始動しました。 当ブログでは大阪をメインに、関西の面白くて不思議な場所を紹介したり、街の歴史や文化を深掘りしていきたいと思っております。楽しんでいってね!