北余部西を歩いた!
大阪府堺市美原区にある北余部西。
北余部は地名としてけっこう有名ですが、その片隅にある小さい町、そこが北余部西。堺市民のあいだでも全然話題にすらならない小さな町です。たぶん存在じたい知らない堺市民も多いはず。
だけど知らないからこそ行ってみたい・・・そう思いませんか?
さっそく先日、ここ探索してきましたよ~!
(撮影・執筆 2025.7)
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北余部西は「北余部」と別モノだった⁉
北余部西の団地の集会所↑
地図を見た瞬間、「あー、北余部の西側やろ?」って思うじゃないですか。でもね、違うんですよ。いやね、たしかに北余部の西にはあることは間違いないんです・・・・・・しかし北余部西は、北余部の“親戚”みたいな存在。昔の北余部という大きな土地を、昭和から平成にかけての住居表示のときに細かく分割して、そこで誕生したのが北余部西。
だから、堺市民たちの世間話でよく出てくる「北余部」と、「北余部西」をそのまま重ね合わせると、「あれ、全然話がちゃうやん!」ってなるんです。この“名前の罠”が、堺市民でもたまに混乱するポイントなんですよね。
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地名のルーツ:「余部(あまべ)」の由来
団地には小さな寂れた公園が点在する↑
「余部」という名前はかなり古く、平安時代にはすでに「余部郷(あまるべごう)」と呼ばれていました。
名前の意味は諸説あるらしくて、
・余った土地を分け与えた「余る部」説
・川や海の漁師集団=「海人(あま)」説
などが有力とのこと。
いずれにせよ、古墳時代から人々が暮らし、竹内街道沿いの要衝として栄えていた歴史ある地域なんですよ。
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歴史と町の成り立ち
府道36号線&阪和自動車道沿いの歩道↑(幹線道路沿いにある町なので、車での交通の便は良い)
北余部西を含む美原区は、飛鳥時代〜奈良時代にかけて難波宮と飛鳥京を結ぶ竹内街道が通る重要な道筋でした。古墳やため池が点在し、古代の交通・物流の中心でもありました。
中世には河内鋳物師と呼ばれる鋳造職人の拠点となり、東大寺再建や鎌倉大仏の鋳造にも関わったとされます。江戸期〜昭和初期は農村として田畑が広がり、戦後の宅地開発とともに徐々に住宅地へと変化していきました。
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歩いてみた北余部西、団地と住宅の二重奏
実際に歩いてみると、まず目に飛び込んでくるのが、でっかいマンション団地。昭和後期から平成にかけて建てられたらしく、ズラリと並ぶその姿はちょっと圧巻。団地マニアにはたまらん景色かもしれません。
一方で、団地のすぐ横には整然と区画された普通の住宅街が広がっている。玄関前には花が植えられてたり、子ども用の自転車が置いてあったりして、静かな暮らし感が漂っています。
昔の田園風景はすっかり影を潜め、住むことに特化した街に進化したわけやね。
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お店は少ないけど、暮らしやすさは○
コインランドリー↑
自転車屋↑
北余部西そのものには、これといった大型店舗はありません。歩いて見かけたのはコインランドリー、美容室、その他の個人商店が数件ほど。よそから来た人は「え、買い物はどこで?」って思うかもしれません。
でも心配ご無用。
万代 美原店↑(住所的には北余部西ではなく、隣町の「大饗」になる)
町のすぐお隣にはスーパー万代があって、自転車・徒歩ですぐ行ける距離感。生活の不便さは全然ない。むしろ静かな住宅地のまま暮らしやすさを確保できてるって、バランス良いなぁと思いました。
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北余部と北余部西の違い、知って歩くともっと面白い
もう一度おさらいすると、北余部は昔からの地名で、北余部西はそれを現代の住居表示で切り分けた新しい名前。
名前は似てても実際の範囲は違うので、古い資料を見ながら歩くときは要注意。でも逆にその違いを知って歩くと、「ここ昔は北余部って呼ばれてたんや!」みたいな発見があって散策が楽しくなるんですよね。
北余部西は、古代の交通路や鋳物文化の名残を持ちながらも、昭和〜平成期の団地や住宅地として発展した町。
田園から住宅地へと変わる過渡期を経て、今では静かな住宅街として落ち着いた雰囲気を漂わせています。
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美原区『北余部西』の場所
グーグルマップ